年の瀬の会話
久しぶりに、中学の同級生と会った。
年末のこういうイベントは、すこしそわそわするが、楽しみなものだ。
卒論が全然進んでいなくて大焦りするべき時期だが、
前々から決まっていた予定なので、割り切って参加した。
久しぶりだし、特に今年は来年の進路が決定した一年だったので、報告も多く会は盛り上がった。人生の分岐点でもあり、各々の持つ悩みも話して、さらに仲良くなった気がしてうれしかった。
頻繁に会えるわけではないが、たまに会うと昔のように戻って楽しく話せる、というのが独特の日常な気がして、大事にしたいと思う。
でも、お酒がまわっていたせいか、少し深入りした話題になってしまい、自分の発言を気にする。
進路の話はいいけど、家族の話はそれぞれ事情があるのだし、自分の家庭のこともそこまで言う必要がなかったかもしれない。
うちは裕福ではないがいい家族に恵まれて、家族には感謝しているし不自由を感じていない。強制されることも無くて、進路だって自分で選んだ道だ。
しかし、他の人の家庭の苦労をきくと、自分も苦労を話したくなって、本音と違うことを言ってしまった気がする。
自分と似た家庭出身の、家族の苦労よりも感謝を話すような友達と話したときは、自分の家族に対しての感謝を素直に話せた。
でもこれは、だれにでも気軽に話すような内容ではなくて、人によっては地雷になる場合があると思う。
今後は気を付けないといけない。
帰りの車もずっと話していた。
結婚願望はあるか聞かれた。
最近よく考えることが、
今の恋人とこれからも一緒にいたいということと
自分は子供を育てることができるのか
ということなので、つい話してしまった。
要すると「結婚はしてもいいが出産は自信がない」という内容を答えた。酔っていたので同じことを何回も言った気がする。
友達は「一人で死にたくないから結婚したい」とのことだった。
それを聞いてつい言ってしまったのが、
「しんどくなりながら長生きするよりも、楽しいうちに早く死にたい」という内容。
友達からはあまり共感がなかったので、もっと明るく話せばよかったかなと後悔する。
昨日の自分の発言を振り返って、これは常々頭をよぎる考えなので言ってしまったのだろうが、はたしてこれは自分にとって正しいのか疑問になった。
世界の正しさは多様なのは置いといて自分にとっての正しさ。
よく考えるとこれ、つらいことから逃げる自分の性格が表れている。
今も卒論から逃げて逃げて、ぎりぎりになっている。
逃げても良いことと逃げてはいけないことがあって、自分なりの判断はできる。
そのうえで逃げてはいけないことから逃げている。
老衰に伴う苦しみから逃げることは、自分にとって正しいのか。
老衰も病気も人生で自分が積み重ねたもので、それは逃げるべきものではなく理解し受容するべきものではないか。自分を肯定することにつながるし。
自分にとって経験は宝物で、大切にしたい。
そう考えると長く生きてたくさん経験することで充実した人生になるので、
早死にしてはもったいない。
あとは、若さによる価値が自分からなくなっていくのが怖かった。
でも、若くなくなっても、体型が変わっても、変わらず好きだと言ってくれる人と出会えた。
自分を愛してくれる人たちに感謝して一緒に過ごすためにも、早死にしたいなんて、正しくないかも。
楽しいこともつらいこともどっちも、たくさんたくさん経験して、世界でたった一つの人生を構成することが、人間の醍醐味ではないか。
よく考えると、まちがえたな。
お酒のせいの失敗として、今後はこんなこと言わないようにしよう。
でも楽しかった。また久しぶりに会ったときは、いろんな話をしよう。
卒論からも、そろそろ逃げたらだめだから。本当に。本当に